きれいに揃えられたローファーの片方に左足を押し込んで玄関のドアノブに手を掛ける。もう片方のクツを右足で引っかけて家を飛び出す直前に見た時計の針は8時丁度を指していた。駅まで歩いて4分弱、それを走ればどのくらい短縮できるのかは走ってみないとわからない。8時3分発の電車に乗り遅れれば完全に遅刻だというのに、頭の片隅を3の数字が駆けていく。それはいつか見た、わたしの体育の成績だった。


きれいに舗装された下り坂の路面を一気に駆け下りていく。わたしの歩幅に少し遅れてローファーの乾いた足音がわたしを追いかける。左足と右足を交互に動かすだけでわたしの身体は駅へ駅へと向かっていった。駅まで歩いて4分弱、走ればきっと3分なんて掛からない。8時3分発の電車に乗り遅れる心配なんてこれっぽっちもないのだと思った途端に呼吸をするのが苦しくなる。10段階評価なんだから仕方がない。










こうなることが初めからわかっていたのなら絶対にわたしはあのとき、丁度3分前、走ろうだなんて絶対に、絶対に思わなかったのに。


「はぁ、・・・っ、はぁ、・・・」


わたしの目の前、ほんとうに、目の前で気の抜けるような音を立てながら電車の扉は閉まり、そのまま走り去っていったのだ。がたん、ごとん、だんだんと遠ざかっていくその音はまるで体育が苦手なわたしを嘲笑っているかのように聞こえた。


「・・・、はぁ、」


もしもわたしの体育の成績が、10とは言わないけれどたとえば7とか、せめて6とか5だったらこんなことにはならなかったかもしれないと考えてみると、思うように動かない両足と走る前から虫の息のような呼吸器官をひどく惨めに感じるのだけど、それ以前にどうしてわたしはあのとき、頭の片隅に3の数字を見たあのとき、走っても間に合うわけがないとあきらめなかったのだろうと違うところで後悔し始めるのだ。次の電車が来るのは8時8分、けれど次この駅に電車が止まるのは8時18分で、どうしてこう間が悪いのか、駅のフォームを通り抜ける風がわたしの太ももを突き刺すたびに憂鬱な気分になっていくのだ。










「うん?・・・?」


右手で握っていた携帯のディスプレイの中に浮かぶデジタル時計が丁度、8時14分から8時15分に変わったときだった。


「・・・あれ、」


丸めた肩の向こうから名前を呼ばれて振り向くと見慣れた顔がそこにあった。


「デイダラ」
「おう。なんだ、遅刻かい?珍しーな、うん」
「ええっと、あの、寝坊して・・・走ったんだけど、間に合わなくて」
「何時に出たんだ?うん?お前んち駅まで距離そんなねーだろ」
「・・・は、はちじ、ちょうどくらい・・・・・・」
「ククッ・・・まぁの運動神経じゃ間に合うわけねーか、うん」


まぁオイラだったら余裕だけどな。人を小馬鹿にするようなその言い方はいつものことなのだけれど、いつものことだからこそいつものようにカチンとくるわけで、けれどデイダラの言ってることに間違いなんてないんだから何も言い返せないわけだ。何も言えずにただじっとそのにやついた憎らしい顔を見上げているとデイダラは一層楽しそうに笑って言った。


「お前が一人でハァハァ言ってるとこ見たかったけどな・・・うん」


間もなく電車がフォームに到着して、わたしたちの目の前で気の抜けるような音を立てながら電車の扉は開いた。もう完全に遅刻だってことは十分わかっているし、今さら、というよりも8時丁度に玄関を飛び出したあの瞬間からどんなに急いでも無駄だということはわかっているのに、どうにも気持ちが焦ってしまう。一時間目の授業は何だったのかなかなか思い出すことができない。数学だったような、古文だったような、とにかくなんだかあやふやだ。4時間目が体育だってことは、忘れようがないのだけれど。
とにかくわたしは今さらながらこんなにも焦っているというのに、それがなぜか、デイダラはやっぱり余裕しゃくしゃくの表情なのだ。数学だろうが古文だろうが関係ないとでも言いたいようなその顔を見ているとなんとなく負けた気分になる。大きな青い目がわたしのことを見下ろしていた。なんだ、知ってたのなら初めから教えてくれればよかったのに。










「これ、の分よ」


教室に入るなり、小南がわたしの左手の上に一枚の紙切れを乗せた。小さく折りたたまれたそれが何なのかわたしはちっともわからなくて、とりあえず教壇に先生が立っていないことと、その代わりにペインが黒板に白いチョークを走らせて何やら規則正しい線を引いていることと、結局一時間目の授業が数学なのか古文なのかそれ以外なのかさえわからなくって首を傾げているわたしの横で楽しそうににやにやと笑っているデイダラがやっぱりむかつくことと、いろんなことがわたしの頭の中をいっきにぐるぐると回り混乱する。


「・・・え?なに?っていうか、先生は?一時間目ってなんだっけ?」
「何を言ってるの?」


人生って何が起こるかわからないから楽しいんだって誰かが言ってたような気がする。そんなことを、ふと、急に、思い出した。


「席替えよ。昨日言ってたでしょう?」


ついてない日って、ほんとうに、ついてなくて、それこそ何をしたって結果は悪い方に転ぶばかりで、たとえば今日みたいに、ちょっと寝坊しただけで朝から全速力で走るはめになった上に電車には乗り遅れるしデイダラには馬鹿にされるし学校には遅刻するし、だけど幸か不幸か一時間目は席替えで、むしろ幸か不幸かも何も先生に怒られなかったことを差し引いたって確実に不幸なわけだけれど、だってわたしの席は窓際の一番後ろの席で、前の席は角都くんだから居眠りしたって絶対にばれないし、前の席は角都くんだからあんまり先生も回ってこないし、前の席が角都くんだから飛段の声がやたらとうるさく感じるのだけは玉にキズだったけど、それでも最高の席だったのに、どうして席替えなんて、ひどい。というか、昨日、誰か、言ってた、の?


「遅刻してきたとデイダラは自動的に残りクジよ」
「・・・うん」
「ペインが黒板に座席の番号書いてるから」
「・・・うん」
「自分の席確認したら移動して」
「・・・うん」


ついてない日って、ほんとうに、ついてないんだからどうせわたしの席なんて、きっと教壇の目の前の、先生いわく”特等席”の、あの場所に違いないのだ。番号なんて見なくたってわかる。だって今日はついてない日だ。教室の端で誰かが上げた叫び声がわたしの耳を衝く。


「おい、何番だった?うん?」
「・・・18番」
「18・・・18・・・ってツイてんなぁ、特等席じゃねーか、うん!」


なんで、どうして、こう、予想してたことなのに、わかってたようなものなのに、こうして改めて、しかも他人の、というかデイダラの口からその事実を聞くとこんなにも憂鬱な気分に拍車がかかるのか、もしもあのときわたしの頭を過った数字が3ではなくて10だったなら、今こんなことにはなってなかったかもしれない。遅刻しなければ、このクジでないクジをきっと引き当てていたに違いないのだ。


「さて・・・もう一人特等席に座んのは誰かな・・・うん」


人生って何が起こるかわからないから楽しいんだって誰かが言ってたような気がする。それってテレビの中の人か、街なかを歩く見知らぬ人か、どこの誰が言っていたのかは思い出せないのだけれど、それなのになぜかその言葉からは得体の知れない説得力のようなものがにじみ出ていて、事実たとえば寝坊して遅刻したり、たとえばこんな風に”当たりクジ”を引くはめになったり、する。


そしてきっと、もう一人の特等席は飛段のものに違いないのだ。さっき聞こえた叫び声は紛れもなく彼が上げたもので、そしてそれが喜びによるものかそうでないかくらいわたしにだってわかった。そして何と言っても今日はついてない日で、これから毎日隣の席から妙な宗教、ナントカ教の神様がどうのこうのなんていう勧誘を受けることになるのかと考えるだけで憂鬱な気分が一層色濃くなっていく。デイダラもわたしと同じことを思っていたようで、含み笑いを残すと教室の端、学生服をきっちりと着こなす角都くんの隣でシャツのボタンを3つも開け放した飛段の方へと駆け寄っていった。


「・・・クジ?」


わかっていたことなんだけど、飛段の声は無意味なくらいに大きくて会話をしているはずのデイダラの声はちっとも聞こえないのに飛段ひとりの声がやたらと大きく教室に響いた。


「あァ、特等席だったぜ」


それが聞こえると同時、デイダラはわざわざわたしを振り返ってにやりと笑った。こんなにも人の不幸を無邪気に笑う人をわたしはほかに見たことがないような気がする。


「最初は、な」


人生って何が起こるかわからないから楽しいんだ。こんな言葉をわたしの耳に残した誰かが今頃わたしのことを嘲笑っているような気がしてならない。たとえば遅刻したわたしを、たとえばそのせいで”当たりクジ”を引くはめになったわたしを。
もしも遅刻しなかったら、もしも8時3分の電車に乗れていたら、もしもわたしの体育の成績が7とか6とか、せめて5だったら。”もしも”を重ねれば重ねるほど余計に空しくなっていく。どれだけ頑張ってもわたしはこの現状をもうどうにもすることができないのだ。神様の振ったサイコロの目のように人間の人生は転がるのだというけれど、次に神様がわたしのサイコロを振ってくれるのはいつだろう。きっと今日はもうサイコロなんて振ってくれない。今日はもう、閉店だ。


「ん?あァ、実はな・・・」


人生って何が起こるかわからないから楽しいんだ。こんな言葉をわたしの耳に残したのがもしも神様だったとしたら、次から次へと楽しくないことばかりが起こるのは神様のことを気にも留めずに毎日を生きているわたしへの報いか、それともただの偶然か。
わたしのサイコロには一体いくつの目があって、そのうちいくつが”楽しい”ものなのだろう。10個か、20個か、それとも。















#01 神はサイコロを振らない


わたしに与えられたそれがたとえばたったひとつだけだったとしても、それでも構わない。


「サソリのクジと取り替えさせてもらったぜ。あいつ寝てっからよ・・・ククッ」


だから神様。どうかサイコロは、そのままで。