体育の授業のことを考えるといつも憂鬱な気分になる。その理由は至って単純、わたしは体育が苦手だからだ。ソフトボールをすれば打席で一歩も動けないのに、テニスをすれば授業中に何度もホームランを飛ばしてしまう。バドミントンはまるで公園で遊んでいる小学生のそれなのだ。だけど何より苦手なのは走ることで、それは体育の授業がソフトボールだろうとテニスだろうとバドミントンだろうと、体育館でマット運動の日だろうと常に付きまとってくるもので、それどころか体育の授業でなくても走る、という、体力というよりも命を削るようなそれは日常の中にあふれている。たとえば今朝がそうだ。あの数分間でわたしの命は一体どれくらい削られてしまったのだろう。


3時間目の始業チャイムが教室に響くとデイダラのしゃべり声がぴたりと止む。「じゃぁな、4時間目は体育だからな!うん」楽しそうに言葉を捨てて上機嫌のまま自分の席へと戻っていく。
デイダラがいなくなった後で改めて妙な緊張感に包まれる。普段からサソリくんの姿がわたしの視界に入るたびに(正確には、サソリくんの姿をわたしの視界に入れるたびに、)なぜか身構えてしまって、しゃべりかけることはおろか、デイダラを通してだってうまく会話することができないんだからそれは当然のことで、けれどわたしの隣には確かにサソリくんが、あの、サソリくんが座っていて。


魔王の島から無事生還したのだろうか、サソリくんは船をこぐのを止め、そのきれいな横顔は真っ直ぐに黒板を向いていた。わたしもサソリくんばかり観察していないで授業も真面目に受けないと先生ににらまれるよりもきっとサソリくんに呆れられてしまう。それだけは嫌だな、と思いながら机の中をごそごそと3時間目の授業の教科書を探すのだけど、そういえば今日の3時間目の授業が何だったのかやっぱりわたしは思い出すことができないのだ。 自分で自分に呆れながら黒板の脇に掲示された時間割表に目をやると、今日の3時間目の授業が化学だということがすぐにわかった。特等席に座ることの利点をここへきてようやく見出せたような気がする。昨日までわたしが腰かけていた窓際の一番後ろの席からはどう頑張ってもA4紙に印刷されたあの時間割表の小さな文字を解読することなんてできなかったんだから。ただでさえわたしの視力は悪くて、眼球の上に乗せた薄いレンズをどこかに落としてしまおうものなら視界が一瞬にして歪み、滲み、溶けるようにして色を変えてしまう、そのくらい悪いのだ。見渡す限り黒板の緑が広がるここならきっと、薄いレンズの力をもってしても、その上でさらに目を細めても解読できない黒板の文字を角都くんに教えてもらうことなんてないのだ。(角都くんに何かをしてもらうたびにやっぱり何か請求させるんじゃないかとわたしはいつもビクビクしてしまう。もっともわたしは何か見返りを求められたことなんて一度もないし、何より角都くんがどこの席になったのかわたしは知らなかった)そう考えてみると特等席も悪くないのかもしれない。こんな風に思えるのはもちろん、隣の席に座っているのがサソリくんだから、なんだけど。


先生はまだ来ない。サソリくんのまぶたは普段通りのとろん、に戻ってただじっと黒板を見つめているだけだ。わたしはまだ、ごそごそと自分の机の引き出しをまさぐっていた。確かこの中にはほとんど全教科の教科書が詰め込まれていたはずだ。わたしの記憶ではそのはずだ。だからこそ優しい角都くんが請求書を差し出すこともなく机を運ぶのを手伝ってくれたのだ。
だからこの机の引き出しにまさか化学の教科書が入っていないなんてことはなくて、そうだ、引き出しの中ぜんぶ机の上に出せばきっと、すぐ、見つかる。・・・はずだった、のに。








「・・・ない・・・・・・・」


思わず声がこぼれてしまって、ちらり、視線だけ右側に向けるとサソリくんもちらり、視線だけわたしを向いていた。ぴたり、わたしとサソリくんの視線がぶつかり瞬間わたしの心臓が走り出す。ドクンドクンと音を立てながら精一杯に駆け回る。恥ずかしくて顔から火が噴き出そうになったわたしはサソリくんから視線を外してもう一度、引き出しの中を確かめる。現国も、数Bも、倫理も、古文も、美術の教科書だってあるのにどうして化学の教科書が見当たらないのか、教科書の表紙を確かめるたびに頭がまっしろになっていく。

どうしよう。声には出さないけれど、本日四度目になるセリフが五度目、六度目、七度目と回数を増していく。どうしよう。どうしよう。どうしよう。せめて休み時間に気づいていたら隣のクラスに借りに行くことだってできたのに。始業のチャイムが鳴ってしまった今、わたしができることといえばただ、ひとつしか、ない。


「さ・・・サソ、サソリ、くん、・・・・」


その名前を口に出すことさえ緊張してうまくできないわたしが、その先の言葉を続けることなんて果たしてできるだろうか。今度は顔ごとサソリくんに向けると、その綺麗な横顔の中でもいちばん綺麗な赤銅色のパーツがわたしのことをじっと見ていた。心臓は走るのをやめない。それどころかさっきよりもドクンドクンドクンドクン、足早にわたしの中を駆けるのだ。もしもわたしの心臓が身体の右側にあったら大変ことになっていた。わたしの心臓が左側にあって良かったと思う。少しでもサソリくんから離れた位置にあって良かったと、思う。だって、もしもわたしの心臓が右側にあったらきっと、走るだけでは済まなくて、ドクンドクンじゃ済まなくて、熱の塊みたいなそれはもしかしたら爆発してしまっていたかもしれないのだ。サソリくんに見つめられている、今この瞬間に爆発してもおかしくないわたしの心臓がその形を保ったままでいられるのはきっと、サソリくんのいない左側にあるからに、違いない。


「ご、ごめん・・・・・・なんでも、ない」


その先の言葉をやっぱりわたしは続けることができなくて、はたから見たら不気味以外のなにものでもないような、けれどわたしの精一杯の笑顔でこの場を取り繕う。心臓が急に失速したのはその持ち主に似て体力が続かないだけなのか、それともサソリくんの綺麗な赤銅色が怪訝な表情を浮かべたからだろうか。どちらにしたってその中に映るわたしの笑顔はやっぱり、不気味だ。


化学の教科書は諦めよう。思うのに、両手に握りしめた数Bの教科書を見つめているとやっぱり気が重くなってしまう。なんて役立たずな引き出しだろう。化学の教科書一冊入っていないなんて、あんなにも(角都くんが)苦労したのに、詐欺だ。だけど何より、忘れたことにも気付かないでこれからこの、わたしにとっての本当の意味での”特等席”で過ごすこれからのことばかりを考えていたわたしがいけないのだ。
わたしがいけないのに、いくら隣の席だからってサソリくんの教科書を一緒に見せてもらうなんてそんな。こうしてお願いすることもできないどころか、たとえお願いすることができたとしてもサソリくんとひとつの教科書を見ることになった日にはそれこそ授業になんて集中できるわけがない。そうだ、だから良かったんだ、その先の言葉を続けることができないわたしで良かった。そうだ、良かったんだ、うん!


「・・・オイ」


・・・良かった、のに。
おそらくこれは、空耳と、幻覚だ。
ついさっきサソリくんの手の中に握られていたピンク色のボールペンが視界の端に入って、さっき思い浮かべた少女漫画の王道みたいな恋が頭を過ぎったからだと思う。恋って、すごい。サソリくんではなく、サソリくんが手にしていただけの、しかもたった一瞬だけだったその、ピンク色のボールペンと目が合うだけで、わたしを向いてその薄い唇を動かしわたしに向かって呼びかけるサソリくんの姿と声が見えてしまうなんて、なんて、わたしの頭には単純な思考回路が出来上がっているんだろう。サソリくんがわたしに話しかけるなんてまさか、そんな、少女漫画じゃあるまいし、うん!


「・・・・・・・・・・・・オイ」


・・・あるまい、し。
それなのにこれは空耳でもなければ、幻覚でも、ない。



「・・・え、あ、はい!」
「・・・・・・さっきから呼んでんだろ」
「・・・ご、ごめん、なさい」


サソリくんに、名前を呼ばれてしまった。、って、サソリくんの唇がわたしの名前を形作って、サソリくんの口がわたしの名前を声にする。ただそれだけでわたしの、なんでもないという苗字が一瞬にしてその色をピンク色に変える。もしかしたらサソリくんは魔法使いなのかもしれない。
大袈裟なことを考えてしまっている自分がだんだんと恥ずかしく思えてきて、身体中の熱が顔に集まってくるのがわかった。


「フン・・・謝るにしちゃ随分と楽しそうな顔してるぜ?」
「そ、そんなこと・・・、」


ある、よ。あります。あるに決まってる。やっぱりサソリくんは魔法使いなのかもしれない。あるに決まっているから余計に恥ずかしくなって、だけどやっぱり楽しくて仕方がないのはまぎれもなくサソリくんのせいなのに、そんなことはお構いなしにサソリくんはわたしのことを呆れた顔で見つめている。化学の教科書を忘れたことを咎められるのだろうか。無駄にたくさんの教科書で敷き詰められている引き出しを見て笑うのだろうか。どっちになってもおかしくないような目をサソリくんはわたしに向けているのに、どうして、なんで。
まさかサソリくんがこんなセリフをわたしに向かって吐くなんて、それこそ詐欺だ。


「・・・見せてやってもいーぜ」
「へ?」
「・・・忘れたんだろ。教科書」
「・・・・・・・・え」


ぽかん、と、空いてしまった口がどうにもふさがりそうにない。きっと今わたしはすごく間抜けな顔をしている。そんな顔を、サソリくんに向けてしまっている。けれどもう、そんなことを気にしている余裕なんてどこにもないのだ。心臓が再び走り出す。どんどん、どんどん加速していく。


「オイ・・・机。教科書が落ちるだろ」


サソリくんの赤銅色が間抜け顔のわたしを小さく睨む。


「う、うん!」


知らなかった。
重い机を引きずることが、こんなにも楽しいなんてこと。















#03 雨の夜空に星が降る


一番後ろの席から視線を感じたのはきっと気のせいだ。