浮かれすぎて忘れていたけれど、これはとんでもない事態なんじゃないか。


喜んだらいいのか悲しんだらいいのか分からないなんとも困ったことに、3時間目、担当の先生が中々現れなかった。休み時間と変わらずざわついている教室内、わたしは身動きできずにただ座っている。無意味に膝の上に両手を置いて姿勢を正してみたりして。それから、無意味に足をぶらぶらさせてみたりして。
本来なら今頃私たちの前に立って大声をあげ授業を進めているべきである化学の先生は、ちょっと怖いので有名で、始業のチャイムが鳴ってもフラフラ出歩いている生徒を見かけると、すぐに怒る。だからわたしもフラフラ出歩いたり出来ない。どんなにこの時間が窮屈で仕方が無かったとしても、だ。
行くところもなく話す相手もいない。なんて苦痛で、(それでもやっぱり)すてきな時間なんだろう!


「せ、先生、来ない・・・ね」


ポツリとダメもとで呟いてからサソリくんの横顔を盗み見て見ると、彼は一度瞬きをして、それからゆっくりと赤銅色の瞳をこちらに向けた。目が合って、手のひらに変な汗が出る。恥ずかしい。女失格じゃないかなこれ、大丈夫かな。スカートの裾をぎゅっと握って水分を逃がした。


「・・・そうだな」


サソリくんは答えてくれる。ダメもとで呟いたわたしの会話に、乗ってくれた。嬉しい。今すぐ立ち上がって踊りだしたかったけれど、わたしにはそんな勇気なんてちっともなかった。愛と勇気の天秤は、今現在愛の方向に傾きすぎている。故に勇気がちっともない状態だ。

いつもより近い距離と声と、何だかいいにおいがする気がする。高い確率で気のせいだろうけど。とにかくそんな近い距離にいるサソリくんが嫌でも気になってしまって、合わさった机が中学時代をなんとなく思い出させて、わたしの心臓は今にもどうにかなってしまいそうだった。
大体、どうしてサソリくんに教科書を見せてもらうことになったのだろう。いや、サソリくんが言ってくれたからだ。見せてやってもいーぜって、あの声で、あの顔で言ってくれたからだ。そんなの、断れるはずがない。その証拠にわたしとサソリくんの丁度真ん中には、今日使うであろうページが開かれた科学の教科書が置かれている。あんまり使っていないのか、わたしの教科書と同じで真新しい雰囲気がある。けれどところどころに書き込まれた細かな文字が、わたしの教科書との決定的な違いだった。


ほうっとしながらその教科書を見つめていると、ふと、サソリ、という単語が聞こえたような気がして、わたしはぐるりと教室内を見回す。ざわざわとしている教室内、心なしか、見られているような気がした。それもそうだ。高校で、しかもこんな特等席で、机をぴったりあわせて。目立たないはずがない。それも相手はあの、サソリくんだ。割と・・・いや結構人気のある、サソリくんなのだ。女の子のチリチリとした視線が肌に痛い。チクチクというよりもチリチリだった。


あ・・・、と不意にある出来事を思い出す。そういえば二学期が始まって最初の一週間、わたしは英語の教科書を忘れた。別のクラスの友達にも借りず、ノートと筆箱だけ出して授業に挑んだ。けれど、まるまる一週間先生に何も言われず、ごまかしきれた。先生が見てみぬフリをしてくれたのか、わたしが目立たないからかはわからない。そんな記録を持っていたはずなのに、今回に限って取り乱してしまったのは、やっぱり隣りにサソリくんがいたからだ。少しでも恥ずかしいところを見られたくなくて、わたしは動揺する。そしてわたしは動揺するたびにどんどん泥沼にはまっていることに中々気がつかない。


ああ、そうだ、せっかくサソリくんが会話に乗ってくれたのだから、何か言わないといけないんだ。ボーっとしたまま暫く過ごしてしまったことを心底悔やみ、次の言葉を捜すべく口をパクパクと開け閉めするも、お笑い芸人のように面白い言葉も、名司会者のように気の聞いた言葉も、ドラマのようにかわいい言葉も出てこなかった。


「・・・次、体育だな」
「・・・・・うえっ?」


そんなこんなで口をパクパクしている状態で、まさか話しかけられるとは思わず、わたしに話しかけているのか独り言なのかああもしかしたら独り言だったのかもしれないどうして反応してしまったんだろうバカバカ!なんて思いながら隣りを見ると、やっぱりすごく近くにサソリくんの綺麗な顔があって、わたしをしっかり見下ろしていて、あーよかった独り言じゃなかったわたしに話しかけてくれてたと理解した瞬間、眉間の辺りがボッと熱くなる。


「そ・・・そう、だね」
「今週からハードルになるらしいぜ」
「え、えええ・・・それは・・・困る」


ハードルは苦手中の苦手だった。何せ50mを普通に走っただけでもクラスで一番遅いわたしなのだ、ハードルなんて高い障害物を跳び越せるはずがなかった。高校に入ってからハードルは初めてだったけれど、きっと中学でやったときよりもずっと高いハードルを使うのだろう。そんな気がする。そしてわたしは中学の運動会で、ハードルを全部倒して走った挙句ビリだったことを思い出した。あんなことになってしまったらどうしよう。あまつさえサソリくんがその失態を見ていたらどうしよう。あの綺麗な瞳で。ああ、どうしよう。恥ずかしい。


はハードルとか出来なさそうだな」
「え?う、うん・・・全然出来ない」
「だろ」


・・・びっくりした。普通に、会話が続いている。今まで遠目でしか見たことが無かったし、喋ったとしてもいつもデイダラが間に入っていたから、二人でこうして話すのは、ほとんど初めてだった。デイダラがべらべらと喋りたてるお陰で、サソリくんは人と、それも女の子となんか全然会話をしない至極無口な人だと思っていたのに。それなのに今わたしの隣にいるサソリくんは、わたしが何か言おうと口をパクパクさせるたびに、こうして言葉を投げかけてくれる。・・・・・うああ、どうしよう。なんだろう、これ。
言いようのない幸福感による眩暈を覚えて、わたしはサソリくんに見られないように俯いて少しにまにました後、顔をあげて、なるべく会話が続くように努力しようとした。サソリくんは相変わらずわたしの方を横目で見てくれている。


「サソリくんは、得意そうだね」
「・・・ハードルとか、走るやつは、割とな。体力ねーけど」
「へ、へえ・・・サソリくん、何でも出来るのかと、思ってた」
「フン、出来ねぇから体育係なんてめんどくせーもんやってんだよ」


サソリくんは、びっくりするくらいに頭が良い。特に理数系の教科は、クラスで一番なのだと、前に誰かから聞いていた。デイダラだっただろうか。思い出せないけれど。成績表は、全て統一されてすばらしい結果らしい。わたしの体育の成績に現国の成績を足した感じなのだと、誰か・・・あ、やっぱりデイダラだ、デイダラはバカにしたように笑いながらそう言っていた。だから、体育もいい成績がとれるように、サソリくんは体育係なんてめんどくせーもん、をやっているのだろうと思う。点数稼ぎ、と言うのだったか。サソリくんらしい姑息な手に私は思わず吹きだす。前々から、準備運動の時に前に出てやっているサソリくんを見るたびに、似合わないなあと思っていたのだ。なんだ、そんなこと。


「いいなあ、それ」


係をやると本当に成績が上がるのだろうか。体育の先生はそういう先生なのだろうか。サソリくんがやっているのだから、きっとそうなんだろう。なんだ、もっと早くに知っていれば、わたしは喜んで体育係でもなんでもやったのに。そうやって自然に出てきた笑みに任せていると、サソリくんはスッと目を細めてわたしを見る。どくりと心臓が動く。持ち主に似て体力がないわたしの分身は、ちょっとの事があっただけでもうどくどくと異常に脈打ってしまう。サソリくんは目を細めたまま、形の整った薄い唇を開く。


「何なら、次の時間ハードル出すの手伝えよ」
「・・・・え?」


ぐにゃりと視界が歪んで、元に戻って、さっきより心なしか鮮明に映った視界の先には、相変わらず綺麗な顔の持ち主がいる。目を細め、口の端を吊り上げ、笑う。


「もしかしたら点数上がるかもしんねーぜ」


『トカレフ』という名前のソ連軍用拳銃のことを、ふと思い出した。どこで耳にしたのかは分からない。ただ、わたしのこの小さな頭の隅に保管されていた曖昧な記憶のうちの一つに、その『トカレフ』があった。トカレフは、信じられないことに、安全装置をも省略化した拳銃だ。その為トカレフは暴発させないよう訓練を十分に受けた玄人の兵士が扱うことを前提として設計された。うろ覚えだけれど、そんな感じだった。なにせ曖昧な記憶だから、詳しいところまでは分からない。
とにかく、わたしは玄人でもなんでもなく、素人なのだ。特に恋愛に関してはずぶの素人。そんなわたしが、どうやってこれを抑えることが出来るというのだろう。ほんの少し気を緩めただけで、暴発してしまいそう、な。
















#04 トカレフの心臓



「うん・・・やる」


わたしは俯いて小さく答える。ガラリと大きな音を立てて先生がようやく入ってくる。どくどくと脈打つ。
安全装置の省略化の他、トカレフのもう一つの特徴は、貫通性が高いことだ。