先生は何事も無かったかのように教壇に立ち、「はい、今日は125ページからな」大きな声を残してクルリ、わたしたちに背を向けて教科書片手に黒板にチョークを走らせる。それと時を同じくして、ついさっきまで休み時間と変わらないくらいに騒がしかった教室は水を打ったように静まり返る。聞こえる音と言えば、カツカツとチョークが力強く黒板を弾く音と、ひらりひらりと教科書のページがめくられる音だけだった。
それはあまりにもまずい状況だった。先生が教室にやってきた後でもわたしの心臓は変わらずにどくどくと血液の巡る音を、これ以上にないというくらいの大音量で響かせたままでいたからだ。どくどく、どくどく。安全装置うんぬんの前に、わたしの心臓はもはやトリガーに人差し指がしっかりと掛けられ、それがたった少し引かれて小さな黒い鉛の玉がその銃口から飛び出すのを今か今かと待ち構えているような、そんな状態だったのだ。トカレフだろうとリボルバーだろうと関係無い。すでにカウントダウンは始まっていたのだ、わたしの意志とは無関係に。


うるさくて仕方がないこの左胸とは正反対に右隣――サソリくんは至って静かなもので、シャープペンシルを片手にその目は真っ直ぐ黒板を向いていた。教科書をめくる様子もない。それもそうだ、さっき見たサソリくんの教科書はぴったり125ページが開かれていて、そこには今先生が黒板に書きなぐった”イオン化傾向と電極電位”と同じ文字が大きく書かれていたのを覚えている。
さすがはサソリくんだ。クラスで一番、と言われているだけのことはある。のだけれど、これまでわたしが考えていたよりも真面目なサソリくんにやっぱりわたしの心臓は必要以上に反応してしまう。サソリくんは化学が好きなんだろうか。なんとなくだけれど、サソリくんからはそんな雰囲気が漂っていて、たとえば白衣を羽織って試験官と向き合っているサソリくんをいとも簡単に想像できてしまうのはわたしの頭がそういう風にできてしまっているからだろうか。想像力が豊かだと言ってしまえばそれはそれで、けれどその一言では片付かないようなことばかりをわたしは朝から、正確には隣の席にサソリくんが座っているのを意識してからずっと、考えてしまっている。わたし、へんだ。
一体いつまでこの状態が続くのだろう。トリガーはいつ、引かれるのだろう。カウントダウンを始めた数字がいつになったらゼロを告げるのか、それを意識すればするほど数字はゼロに近づいていくような気がした。この心臓、わたしの左胸でどくどくと脈打つこれは、わたしのものであるはずなのにもはやわたしの管理下には無かった。


今にも暴発してしまいそうなわたしの心臓を余所に授業は進んでいった。さっきまでわたしの赤い顔を映していた綺麗な赤銅色は二度とわたしを向くことはなく、黒板とノートをゆっくりと行き来しては、丁寧な文字が白いノートに書き出されていくのだった。
それを寂しいと感じるよりも、これでようやくわたしの心臓も落ち着いてくれると思ったのに、なぜだろう。カウントダウンが止まることはなく、むしろあまりにも真剣なサソリくんの横顔が必要以上に気になってしまって仕方がなかった。本当に困ったものだ。授業に集中しようとすればするほど、それがわたしにとってはひどく無理な話だということを思い知らされる。どうやらわたしのトリガーはサソリくんの手に委ねられているらしい。


走ることを止めない心臓。隣から聞こえる、シャープペンシルがノートを引っ掻く音。ゼロの見えないカウントダウン。数センチ隣にはサソリくん。授業に集中できるはずもなく、結局3時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いたときわたしの頭に残っていたのは”イオン化傾向と電極電位”という表題と、次の化学の時間はその実験だということ、そして、そう、サソリくんの、あの言葉だけだった。






































「何でお前がいんだ。・・・うん?」


恋は盲目、とはいうけれどここまで周りが見えなくなってしまったのかと自分を顧みると急に恥ずかしくなってくる。青い目がわたしのことを鬱陶しそうに見下ろしているからその視線からなんとか逃れようとしてみるけれどなかなかうまくはいかないものだ。


「・・・えっと、・・・・・・」


デイダラも体育係なのをすっかり忘れていた。そうだ、体育係はクラスで二人、そのうちの一人がサソリくんならばもう一人はこの男、デイダラに決まっている。
じぃ、と、わたしのことをまじまじと見つめているデイダラはなんとなく不機嫌そうだ。じりじりと注がれる視線が痛い。けれどそれ以上に、この青い目にはもしかしたらわたしの心臓が縦横無尽に激しく脈打つさまが見えているのかもしれないと思うと気が気じゃなかった。そしてその原因がサソリくんであるということを、もしも誰かに知られてしまうとすればやはりこの、青い目の持ち主であるデイダラなのだから油断も隙もあったもんじゃない。


もごもごと言葉を濁らせてみた後でわたしが今ここ――体育の授業の前の休み時間に体育倉庫の前にいるという状況を作り出すきっかけとなった言葉を落とした張本人をちらりと横目で見てみるけれど、そんなわたしに気づく様子もないサソリくんは体育倉庫からせっせとハードルを運び出していた。
肘まで捲くられたジャージから覗く腕は白く、男の人のそれとは思えないほどにすらり、きれいに伸びている。それなのにハードルを持ち上げるその腕はしっかりとふくらみを帯び、見るからに重そうな、まるで鉄の塊のそれを軽々と2個ずつ両腕に持つサソリくんの姿にわたしは当然のように釘付けになってしまう。激しく脈打つ心臓が肌を突き破ってしまいそうな感覚を覚えて次の瞬間、「おいデイダラ・・・さっさとこれ運べ」サソリくんの低い太い声が聞こえてびくん、と上体が一瞬たじろいだ。わたしはデイダラではないのに、「は、はい!」思わず飛び出たその声とは正反対にデイダラは聞こえるか聞こえないかわからないような小声でぽつり、「ま・・・別にいいけどよ。うん」とだけ残すとわたしに青い視線を注ぐのをやめた。


体育倉庫の中は薄暗くて、なんだか湿気の匂いが微かに漂っていた。わたしがここ、体育倉庫の中に入るのはもしかしたら初めてのことかもしれない。体育係でもなければ体育倉庫に足を踏み入れる用こともきっとなかったのだから少し得した気分になる。所狭しと並ぶ体育用具はごちゃごちゃとしていて、この狭い空間の中にハードルはもちろん、サッカーボールや野球のバット、テニスのラケットやリレーのバトンや、隅の方には丸い鉛のようなものまで転がっていた。きっと砲丸投げに使うのだろうけど、わたしが受ける授業ではどうか使いませんように、とこっそり願ったのは言うまでもない。


「・・・


その声を耳にした途端に、それまでキョロキョロとあちこちを向くのにせわしなく動いていた首をぴたりと止め、サソリくんの声がしたほうにしっかりと焦点を合わせる。「それ、頼むぜ」サソリくんの目はこの薄暗い体育倉庫の中でもひときわ目を引くような赤銅色をしている。やっぱり見つめられるならこの目がいい。


「ひとつずつでいいからな。・・・転ぶんじゃねーぞ」
「うん、わかった!」


サソリくんが指差したそれ――見るからに重そうなハードルはもしかしたら10キロくらいあるのかもしれない。そんなことはあるはずないのだけれど、白と黒で交互に色づけられた木の部分に両腕を通し、肘の部分でしっかりとそれを持ち上げてみると想像よりもずっと重く感じた。こんな重いものをサソリくんの、あのきれいな腕が両腕に2つずつ抱えていたのかと思うと、なんだかサソリくんって女の人みたいにきれいな顔をしているのにやっぱり男の人なんだな、なんて、考えた隙にわたしの心臓はこれでもかという頑張りを見せる。どくどくと身体中を血液が巡る音を肌で感じた。


サソリくんがトリガーを引いてしまう前に、不本意ではあるけれども、一刻も早くこのハードルを運ぶべく体育倉庫を出ようとするのに、なにぶんこういった、ハードルなんて重くて大きなものをわたしは運び慣れていないのだ。一歩一歩、右足と左足を交互に動かすことだけで精一杯で、わたしの心臓はこんなにも記録的なスピードで走っているというのに、本当に不本意だ。
うんしょ、うんしょ、と早くも息を上げてしまう自分の体力の無さを改めて哀しく思う。グラウンドではデイダラが軽快にハードルを一つ一つ並べていた。こんなにも重いものをよくも。けれどやはりデイダラはデイダラで、ずいぶんと大雑把なインターバルで置かれたそれを干柿くんが律儀に揃えているのが見えて思わず笑いがこぼれてしまう。同時、ふっと力が抜けてガシャン、と大きな音を立ててハードルがコンクリートに激突する。


「うひゃぁ!」


この後ですぐにわたしはこんな間抜けな声を上げてしまったことを後悔するのだけれど、「・・・何してんだ。気ィつけろ」まさかこんな声にまで相槌を打ってくれるなんて思ってもみなかったからやはり、どうにも嬉しくて仕方がない。ちらり、首だけを回してサソリくんの姿を横目に確認してみると一瞬、サソリくんの赤銅色と視線がぶつかる。これ以上にないというくらいに呆れ顔を浮かべている。呆れ顔を浮かべているくせに、綺麗な形をした薄い唇の端は、上がっていて。


もう、耐えられそうにない。「は、はやく、運ぶね!」慌てて視界からサソリくんの綺麗な顔を逃がして、急いでハードルを持ち上げる。やはり、重い。けれど今はもうそんなことに構っている状況ではなくて、とにかく一秒でも早く此処から離れなければわたしの心臓はきっと粉々に壊れてしまう。鉄の塊なんかじゃない。持久力なんてまるでない。もろくて、よわい、わたしの、心臓は。


「ああ・・・忘れねーうちに言っとくぜ」


サソリくんの声がわたしの背中を優しく叩く。どうか心臓が壊れませんように。そう願う一方で、飛びそうになる意識をこの重いハードルを運ぶことだけに集中させる。わたしは、ハードルを、運ぶ。重いけれど、運ぶのだ。あわよくばこの胸の鼓動、願わくばこの頼りない心臓、どうか壊れてしまわぬよう。
そんなわたしの願いをあざ笑うかのようにサソリくんは、サソリくんは。


「ありがとな」





































「着替えたらすぐに体育倉庫に来いよ」教科書のお礼をいう暇もなく、サソリくんはそう言い残してそそくさと教室を後にしたのは3時間目の終りを告げるチャイムが鳴り響いたときのこと。その背中をデイダラが小走りで追い駆けるのを見届けた後でわたしはようやくサソリくんの言葉を理解できたような気がして、慌てて教室を飛び出した。授業中、片時も忘れることのなかったその言葉が現実味を帯びると同時、わたしの頭の中をぐるぐると巡り始めたのだ。
奇跡的と言えるかもしれない。走るのだけでなく着替えるのも遅いわたしにとって体育の授業の前の休み時間はあってないようなもので、普段のわたしはといえば、教室から更衣室へ移動する、たったそれだけの行動に休み時間の半分を使っているような気がするし、そこからジャージに着替えるのにまた半分を使っているはずなのだ。いったい何にそんなに手間取るのか、理由はよくわからないけれど大抵わたしはチャイムの音を聞きながら慌てて更衣室を飛び出すのが常で、何度先生に注意されても自分ではどうにもすることができなかった。


それがあの、サソリくんの一言だけで。


「あ、あああの、わたしこそ」


どうしてわたしは、サソリくんの前だとこんなにもうまく言葉が出なくなってしまうのだろう。何度も躓くわたしをきっとサソリくんは怪訝な目つきで見ているに違いない。
教科書見せてくれてありがとう、と、続けようとしたのだけれど、ハードルを肘に抱えたまま、サソリくんに背中を向けたまま、いくら心臓が壊れてしまうのが怖いからと言っても、ずいぶんと失礼なんじゃないか。サソリくんを嫌な気分にさせてしまうんじゃないか。
良かれと思ってしたことが裏目に出るのはよくあることで、だけどこの場合は、どっちだろう。真っ赤な顔を見せることと、大人しく背中を向けておくのと。
おそらく、前者で良かったのだ。その方がいいに決まっている。そう思ったからわたしは、そうするためにまずはハードルをゆっくりと地面に置いて、そしてゆっくり、くるり、躓かないように。


「サソリく・・・ぅうぇあ!」


したつもりだったのに、いったい何がどうなればこんな状況に陥ってしまうのだろう。
ガッシャーン。ずるずる、どさっ。
不穏な音を間近で聞いて初めて気づく。どうやらこの場合、後者にしておくべきだったみたいだ。


「・・・・・・・」


気がつけばぐにゃり、と、視界が歪んでいる。歪んで、滲んで、まるで世界が溶けてしまったようだ。冷たいコンクリートの上にぴたりとお尻をつけて、右足の膝の辺りにじわりじわりと痛みを感じ始めて、あ、そうだ、わたし、転んだ。転んだんだ。しかも結構豪快に転んでしまった、ような気がする。
ハードルが重くて、デイダラが大雑把で、干柿くんが律儀で、笑って力が抜けて、ハードルを落としてしまって、その時はなんとか持ちこたえたのに、そうだ、そう、サソリくんが。


あんな言葉をわたしに向かって言うなんて、ちっとも思わなかったから。


「あ、いたた・・・」
「オイ・・・」


どんな顔して、どんな言葉をサソリくんに返したらサソリくんの点数を稼ぐことができるのか、わたしにはちっともわからない。体育の成績なんてこの際どうでもよかったのだ。わたしの頭の中はもはやサソリくん以外のことを考える余地などありはしない。















#05 恋情メルトダウン


「あれ・・・・・・?」
「どうした」
「・・・・・・・うそ」
「あぁ・・・?」


歪む空間、滲む色、溶ける世界、鉄の塊、冷たいコンクリートと、目の前にいるサソリくん。すべてが、ぼやけて見える。


「コンタクト、落した・・・みたい」


なんて、ついてない。