視力が悪い事と、壁や机にぶつかってしまうのはイコールで結ばれない。視力が悪くてもそれなりに何がどこにあるのかは分かるし、壁や机にぶつかってしまうのはドジな人の役割だ。けれどそれが体育の授業ともなると、少し意味合いが違ってくる。視力が極端に悪い人が走り幅跳びをすれば踏み込みの線が分からなくなるし、長距離走を走れば視界に酔って気持ち悪くなるし、ハードルなんかは、位置がいまいちつかめずに失速したり、最悪の場合転んでしまったりする。
最悪のケースを想像してみる。先生がジッと見ている目の前で、みんなが後ろに並んで見ている目の前で、わたしは次々とハードルを倒し、そのたびに転んでいく。コンタクトを落としたんです、と言い訳しても、やっぱり評価は下がってしまうのだろうか。何度も頭の中でシミュレーションしてみるけれど、何度やっても毎回わたしは転んでしまい、先生に呆れたような目で見られるのだ。それから、何よりも、サソリくんに。サソリくんに呆れたような目で、見られてしまうのだ。


「おい」
「・・・・」
「おい、
「え、あ、はい!」


サソリくんのあの綺麗な声で、グンと現実に引き戻される。シミュレーションの中ではクリアだった視界が、今では輪郭という輪郭を失った掴み所のない視界に戻っていた。随分と近くにいるはずのサソリくんの表情は全くと言って良いほど分からず、ただそこには赤と肌色がぼんやりと溶け合っているだけだ。「視力ってのは悪くなると耳まで聞こえなくなるのか」と言われたので、きっと呆れたような表情をしているのだろう。やってしまった、わたしは体育の時間が始まる前に、もう既にサソリくんに呆れられてしまった。サーッと血の気が引いていくのを感じる。「・・・・ごめんなさい」そう言って顔を下に向ければ、コンクリートについた砂だらけになったわたしのジャージが見えた。当然のことながらコンタクトは影も形もなく完璧に姿を消している。彼らはケースや瞳の上に収納されているときはおとなしいくせに、一旦床に落ちるとなるとせっせと走って逃げていってしまうのだ。


「・・・前、見えてるのか」
「え?」
「暗くなったりするんだろうが」
「・・・え?」


サソリくんが言っている意味が分からずに首を傾げれば、サソリくんは暫く黙り込んで、「いや、なんでもねぇ」低い声でそう呟いた。その直後に「くそあいつ」というような言葉が聞こえたような気がしたので、きっとサソリくんは誰かに入れ知恵をされてしまったに違いない。眼鏡が似合いそうなサソリくんは確か視力が良かったはずだ。クラスで一番頭が良いサソリくんが、『人間は視力が悪くなると視界が暗くなるらしい』という話を信じ込んでいたことが何だかおかしくてふきだしそうになる。必死で堪える。ジャージをぎゅうと握って俯いてひたすらに笑いを堪えていると、視界にふっと肌色が入り込んでくる。そのまま右足をがっしりと掴まれた。ビビビッと何かが脳天を突き抜ける。


「いっ・・・!」
「やっぱり痛ぇんじゃねーか」
「・・・え?あの、え?」
「堪えてねぇで痛いなら痛いって素直に言えよ」


どうやらサソリくんは再び勘違いをしたらしい。わたしが笑いを堪えているのを、痛みを堪えているのだと思ってしまったのだ。何だか申し訳なくって、それから突然思い出したかのように右足がじくじくと痛み出したので、わたしの瞳の上には再び膜が形成される。一瞬視界がクリアになるけれど、瞬きをするとそれもすぐに失われてしまった。


「いたい」


視力云々の話ではない。この足じゃ、どう頑張ったってハードルまでの距離を走れやしない。呆れられるよりも前にターン終了、横道にそれてさようならがお決まりのはずだ。そんな恥をみんなに、何よりサソリくんにさらしてしまうよりは、端の方で大人しく見学していたほうが身のためだ。色んな意味で。


「わたし、今日は体育できそうにない、かも」
「そうか」
「ごめんなさい、せっかく手伝わせてもらったのに・・・」


そもそも、結局ハードルひとつ所定の位置に運べなかったわたしは手伝うどころかこうしてサソリくんの作業の邪魔をしてしまっているわけなのだけれど、サソリくんは何も言わず、わたしの右足をじっと見ていた。目の動きまでは見えないけれど、顔の向きから、たぶんそうなんだと思う。


「今日、どうするんだよ」
「端の方に座って、見学してる」
「・・・保健室に行ったほうがいいんじゃねぇのか?」
「え?」
「視力が急に悪くなると、熱出たりするらしいぜ」


たまにイタチが体調悪そうにしてるからな、とサソリくんは今度こそ確信を持った強い語尾でそう言った。そういえば額の辺りがさっきから熱い。きっと、いつもなら見えている場所を、必死で見ようと脳が頑張ってくれているせいだ。


「・・・そう、かもしれない」


どうせ見学も保健室も大してかわらないだろう。かわるかな?よく分からないけれど、サソリくんが『保健室に行ったほうがいい』と言ってくれたのだから、行かないはずがない。「じゃあ、保健室、いってきます」気合を入れて挑んだ最初のハードルの授業はまさかの欠席だ。立ち上がると視界がぐにゃりと歪んで、更に右足に鈍い痛みが走る。「わ、わ!」よろけたわたしの腕をサソリくんが掴んで引っ張ってくれる。


「う、あ・・・ありがとう」


心臓が熱い。脳がどくどくと脈打っている。そういえばさっきは気がつかなかったけれど、サソリくんのあの綺麗な手が、わたしに触れている。そう考えるだけで、何かが暴発しそうになる。輪郭を失っている今の状況が恨めしく感じた。


「おーい何モタモタしてんだ、うん?さっさとしねーともう授業始まっちまうぞ」


そこでタイミングが良いのか悪いのか、大雑把なデイダラが大またで近づいてくる。あんなに軽快にひょいひょい動き回っていたにも関わらず疲れの色が全く見えないあたりさすがのデイダラだ。単純にわたしの頼りない視界がそこまで把握しきれていないのかもしれないけれど。


「わたしが転んじゃってサソリくんに迷惑かけちゃって」
「へえ、さすがだな。まあそんな気はしてたけどな・・・うん」
「・・・そんな気って・・・」
「まあ良いや、オイラはもう運び終わったし」


そう言ってデイダラは背を向けるとひょいとその場にしゃがみ込む。「デイダラ、なにしてるの?」わたしが首を傾げてると、彼は振り返って言う。


「なにって、保健室いくんだろ?オイラが連れてってやるよ」
「え!そんな・・・悪いよ」
「別にいいんじゃねぇのか?」


ふとサソリくんの声が聞こえて、わたしは慌てて振り返る。何だか分からないけれど、好きな人の前で他の男の人におぶられるというのは、どうも気が引けてしまうものらしい。デイダラに悪い、という気持ちも相俟って、わたしは妙におろおろする。視界に入ったサソリくんはわたしを見ていた。


「うるせぇのが暫くどっか行ってくれれば、オレとしても助かるしな」
「うるせぇのってオイラのことかよ・・・うん」


デイダラが不満を漏らせばサソリくんは喉の奥で静かに笑った。おろおろするしかないわたしは、けれどそれでもサソリくんに言われてしまえば、やっぱりそうするしかないのだ。デイダラの肩に手を置くと一瞬にして足が地面から離れた。「うひゃあ!」デイダラは何をやっても大雑把らしい。落ちないように必死でしがみついていると、再び視界にサソリくんが入った。


「じゃ、じゃあ、行ってきます」
「ああ・・・」
「お手伝いできなくて、ほんとごめんなさい」
「フン、何も謝ることねぇだろ」
「え?」


サソリくんは目を細めた・・ような気がする。輪郭をすっかり失ってしまった視界の中で、赤銅色の点が線に変わり、サソリくんから出ているオーラのようなものが、幾分か柔らかくなったような気がしたからだ。もちろんわたしは霊能力者でもなければ魔法使いでもないので、オーラやらなにやらは、わたしの勘違いかもしれないけれど。目を細めたサソリくんは、そうして霊能力者でも魔法使いでもないわたしに口を開く。


「中々楽しかったぜ」


何が、どうして、どうして、何が?わたしはすっかりオーバーヒートを起こした脳で必死に思い返してみる。何が楽しかったというのだろう?どうにか頑張って良い記憶にかえたって、この数分でわたしがサソリくんにとんでもなく迷惑をかけたという記憶しかない。けれどさっきまでの引けていた気も、おろおろとしていた気持ちもすっかりなくなって、残ったのは純粋に、嬉しいとか、勇気を出してよかっただとか、そんなことだった。サソリくんはもしかしたら霊能力者や魔法使いなのかもしれない。
















#06 クリアランス・ライト



「おっし、行くぞ」


そう言ってデイダラがあろうことか走りだすので、「ちょ、ちょっとデイダ・・・うわわ!」わたしは再びデイダラにしがみつくことになる。ガクガクと揺れる視界は相変わらず輪郭を取り戻してはいなくて、午後の授業はどうしようか、そんなことばかり考えていた。
それから、サソリくんのあの準備運動が見れないのは、やっぱりちょっと残念だった。