「いい人」と「やさしい人」の違いは、頭の弱いわたしにはよく分からない。「いい人」と「やさしい人」はイコールなのかもしれないし、「いい人」は「都合のいい人」という意味で実はやさしくなくて、「やさしい人」は「見返りを求めるやさしい人」という意味でいい人じゃないのかもしれない。
わたしは数枚のルーズリーフを見つめたままそんなことをぼんやりと考えた。例えば彼がやさしい人だとして、その裏は何かあるのだろうか。そんなことを考え始めてしまうと、もうどうしようもない。わたしはやっぱり頭が弱くて、心臓も脆くて、ちょっとやそっとのことで、勘違いをしてしまう。期待をしてしまう。もしかして彼がやさしい人だとして、その裏には何が・・・何があってくれるのだろうか。そんなことをついつい考えてしまう。
全ての元凶は、赤。














ふと覚醒したとき、わたしは自分が今まで寝ていたということに気がつくまで数秒の時間を要した。真っ暗な世界の中で未だふわふわ夢の中に浮かんでいるわたしの意識は、それでもやっぱりいつもどおりの日常に忠実で、無意識のうちに枕元にあるはずの携帯を手探りで探す。今は何時だろう。今日はアラームが聞こえなかったけど、もしかしてセットし忘れたんだろうか。寝坊をしていたらどうしよう。せっかくサソリくんの隣りの席になれたのに、二日目から遅刻をしてしまってはあわせる顔がない。
・・・二日目?


ふわふわしている思考の渦の中に一点の疑問が生まれ、そこでわたしはようやく重たい瞼をこじ開ける。さっきまでの夢の中のように視界はぼんやりと揺れていた。これならまだ夢の中の方がはっきりとしていた気がする。目を二、三度こすってからもう一度瞼を開ければ、やっぱり同じようにぼんやりとした世界が漂っている。わたしは心の中で一人首をかしげる。そうして気がつく。
そうだ、まだ一日目だ。わたしのこの長い長い一日はやっぱり一日で、終わってはいなかった。
目を細めて辺りを見回せばなるほどここは保健室で、わたしは飛段に荒々しい治療を受けたあと、大人しくベッドに入って休んでいたんだった。


「お、起きたかァ?おっせーよどんだけ寝るんだよ」


声が聞こえたので体を起こすと、保健室の端においてある先生用の机の上に誰かが座っているのがうっすらと見えた。


「・・・ひだん?」


声と輪郭から何となく想像して声を掛ければ「ちげーよ飛段様だろォ」見当違いな答えが返ってきたので、飛段だと確信した。わたしからしてみれば飛段は本当に飛段様だけれど、本人にそれを言われてしまうとなんだか気が引けてしまうのだ。当の本人はそこまで考えて発した言葉ではないらしく、わたしが何も言わないまま黙っていると鼻歌を歌いながら自分の足にガーゼを当てていた。何をしているのかは見えなかったけれど、たぶん見えなくて良かったと思える光景なのだろうと思い、わたしは見えもしない視界を床へと移す。


「飛段、今何時?」
「・・・さあ。さっきチャイムなってたし、もう放課後とかじゃねーのか?」


どうしてチャイムがなると放課後になってしまうのだろう。わたしが眉間に皺を寄せて必死にそれを考えていると、飛段がそれを感じ取ったらしく「何回目かのチャイム」言い直した。体育の時間だけ寝ようと思っていたのに、今日一日サソリくんの隣りで緊張しっぱなしだったことや今朝の全力疾走が祟って、どうやらわたしは何時間も眠りこけていたらしい。眠りこけて・・・、


「・・・ええええ!もう放課後!?」
「うおっなんだよォ急にでけー声だすんじゃねーよ手元が狂ったっつーの!バァーカ!」
「ば、ばかって・・・!だってしょうがないじゃん!」


もう放課後ってもう放課後って、そんなのって、無い。お昼ごはんは食べられなかったし午後の授業は受けられなかったし(特に5時間目の数学は明日小テストがあるから、今日の授業は絶対出ろってこの間先生が言ってたのに!)それになにより、サソリくんにお礼を言いそびれてしまった。今日中に言いたかったのに。ハードル手伝わせてくれてありがとう、保健室に行けっていってくれてありがとう、それから・・・コンタクト、ありがとう。って。
ベッドの中に入って、さっきまでのサソリくんを思い出していたとき。何となく、わかってしまったのだ。彼が何を探していたのか。彼が何を探してくれていたのか。わたしの目から零れ落ちた彼らは、大人しくサソリくんに捕まっただろうか。持ち主に似て、案外あっさりと捕まったかもしれない。そんなことを考えると、頬が勝手に緩んでしまった。


「あ、そーいえば」
「・・・なに?」
「オレさァ授業とかめんどくせーの受けたくなかったから、の看病するってことでここで遊んでたんだけどよォ」
「うん・・・それは何となく分かるけど・・・」
「でェ!なんかションベン行きたくなって行ったんだけど、帰ってきたらの枕元に変なモン置いてあったんだよなァ。なんだこれ?超スーパーウルトラわけわかんねー」


そう言って飛段が乗っていた机の上からひらりと取り出したのは二、三枚の紙。なんだこれ?と言われても、そう言っている飛段すらまともに見えないわたしに何をどう期待しているのか分からず「・・・なにそれ?」わたしも聞き返す。意味が分からなかったけれど、わたしの枕元に置いてあったんだからわたし宛のものに違いない。そしてどうして飛段はそれをわたしの枕元におきっぱなしにしないでわざわざあんなところに持っていったのだろう。あいかわらず飛段のすることは良く分からなくて、なんだかおかしくて、小さく笑いながらベッドを降りた。相変わらず足は痛いけど、4時間目の時ほどじゃない。ちゃんと、歩ける。よかった。


「飛段、あの、それ・・・見せて」


片足に重心をかけながらぴょこぴょこ歩いていけば、なんだか飛段がガーゼをあてている腕や足の辺りに目がいってしまって、思わずそむける。たぶん、人が見るものじゃ、ない。わたしは紙に意識を集中させることにして、飛段が手渡したそれを受け取るとその場に立ったままそれを見つめた。それはただの紙ではなくルーズリーフで、几帳面な字で何かが所狭しと書かれている。


「・・・え?これって・・・」
「なんだよォ、何が書いてあんだよそれ」
「・・・・・すうがく」


数学ゥ?飛段が眉を思い切りひそめてこちらを見ているのが、視界に入れないでも分かった。確か5時間目は数学で、数学は明日小テストがあるから、今日の授業は絶対出ろって、この間先生が言っていたのだ。たぶんこの見たことのない数式たちは、今日習った範囲なのだろう。でも、何で?誰が?
目を細めルーズリーフを顔に近づけてよくよく見れば、なんてことない、今日全神経を集中させて凝視していたあの几帳面な文字だった。脳裏をよぎるのは、化学の教科書。ところどころに細かな文字が書き込まれた、あの。




「いい人」と「やさしい人」の違いは、頭の弱いわたしにはよく分からない。「いい人」と「やさしい人」はイコールで結ばれるのかもしれないし、「いい人」は「都合のいい人」という意味で実はやさしくなくて、「やさしい人」は「見返りを求めるやさしい人」という意味でいい人じゃないのかもしれない。
わたしは数枚のルーズリーフを見つめたままそんなことをぼんやりと考えた。例えば彼がやさしい人だとして、その裏は何かあるのだろうか。そんなことを考え始めてしまうと、もうどうしようもない。わたしはやっぱり頭が弱くて、心臓も脆くて、ちょっとやそっとのことで、勘違いをしてしまう。期待をしてしまう。もしかして彼がやさしい人だとして、その裏には何が・・・何があってくれるのだろうか。そんなことをついつい考えてしまう。


例えば洞窟で迷子になったとき、目の前の道が突然二手に分かれたとする。どちらに進んだらいいのか分からず途方に暮れたときは、指の先をぺロリとひとなめして頭上にかざすといいらしい。そうすれば湿った指に微かに風が感じられ、風が吹いてきた方の道に進めばいつかは入り口か出口かにたどり着くと言う。いつか読んだ漫画にそう書いてあった。

じゃあ、人生で道が二手に分かれたとき、思考が二手に分かれたとき、どうしたら良いのか、どう捉えたらいいのか分からないとき、わたしはどうすればいいのだろう?



試しに指の先をペロリとひとなめして頭上にかざしてみる。空調設備の行き届いた保健室内は全くの無風。風があってもなくてもわたしの道は分かるはずもなく、


「・・・てめーなにやってんだ?とちくるったかァ?」


飛段にあの独特な笑い方で、笑われてしまうだけだった。
















#08 易しくない人



全ての元凶は、赤。