「・・・、です」


約1メートル先、わたしに顔と身体を向けたまま直立している彼を振り返って、わたしは若干緊張気味にそう言った。
















黒板消しをゼツくんに奪われ、さて今度は何をすればいいのかとぼんやりしていた数秒の間にわたしはかつてないほどの視線を感じて、ゆっくりとその感覚が伝ってくる方向に首を回すと見間違えようもない、印象的なあの不気味な仮面で顔を隠した転校生の男の子が立っていた。
初対面のわたしに何か言いたいことでもあるのだろうかと気になって仕方がなかったけれど、自らそれを口にすることはできなかった。人見知りが激しいわたしにとって、初対面の人間と会話をするという行為はひどく難しい行為ではあったけれど、それ以上にわたしが口を開くことができなかったのはこの痛いくらいに感じている視線の送り主は果たして本当にわたしのことを見ているのか、確固とした自信が無かったからだ。
けれど、わたしの顔と全身を突き抜けるような視線を送っているのはこの転校生、―――トビくん、と言っただろうか―――だというのは明らかで、それはもちろんあの特徴的な仮面がまっすぐにわたしを向いていたからなのだけれど、問題はその、向こうだ。
不気味な仮面の向こうにあるだろう瞳には果たしてわたしの姿が映し出されているのか、確信が持てないわたしは口を噤んだまま横目であの、台風のような仮面をまじまじと見つめていたのだった。


言葉の裏に隠された真実、とでもいうのだろうか。
およそ人間という思考能力を持ったいきものはとても複雑で、外側から見える部分と内側に隠されている部分とではずいぶんと違う色をしていたり、相反することを考えていたり、する。わたしのこの目で捉えられるものには限界があって、たとえばある言葉を耳で聞きとることはできても、頭で理解することができないことがよくある。そう、サソリくんの、あの言葉だ。
何度も頭の中で反芻しようとも、その結果得られるものはいくつもの疑問符だけで、それでも未だにわたしはまだ考えることを止めていなかった。


ただ、この世の中にはサソリくんのあの言葉の意味を理解することよりも難解な物事が存在して、たとえばこの、転校生の男の子だ。


妙に明るい声でデイダラに声を掛けたかと思えば、ゼツくんの後ろに付いているにしても上級生の教室に足を踏み入れることに一瞬のためらいも見せず、「いやぁ、なんか雰囲気違いますねー、上級生のクラスって!」飛び出す言葉ひとつひとつに本心かどうか疑念を抱いてしまうのはあの仮面のせいなのだろうか。明らかに不機嫌そうな表情を浮かべたデイダラの後ろで黒板消しを片手に立ち尽くしていたわたしからゼツくんが黒板消しを取り上げた、そのときからずっと注がれ続けているこの視線にわたしの容量はいよいよ決壊寸前だった。何秒くらい経ったのだろう。デイダラがぶつぶつとゼツくんに愚痴をこぼしている声と、それに反論するゼツくんの乱暴な言葉と、そして二つの声の仲立ちをするもう一人のゼツくんの声をひどく遠くに感じた。
何を考えているのか、どころか何を見ているのかさえもわからない。内側に隠されている部分はおろか外側から見えるはずの部分さえ見えない、何とも言えない感覚がわたしを緊張の渦の中に浮かべていた。グルグルと渦の中を回り続けるわたしをその中心で待ち構えているのはもちろん、この目の前の転校生、トビくんだ。真っ黒な穴の中心に吸い込まれる感覚を覚えた瞬間、「あのー・・・」声が、聞こえた。
一瞬わたしが硬直したように肩をこわばらせてしまったのは、声が聞こえるとは思っていなかったからだ。声を出す、ということはたいていの場合唇が開くもので、腹話術師でもない限り普通はそうなるだろう。だからだ。声が聞こえた方向、それはすなわちわたしがさっきからずっと感じ続けている視線と同じ、・・・やはり、転校生なのだ。


「あのー・・・」
「・・・な、んでしょう?」


恐る恐る返事をする。思わず敬語になってしまった。やはり確信が持てないのだ。不気味な仮面は、その声がわたしに対して投げかけられているものなのかどうか判断させるのを邪魔しているようだった。


「つかぬことをお聞きしますがセンパイの名前、何ていうんですか?」


ここでようやく、冒頭のあの、言葉だ。
まるでわたしに纏わりつくように流れる沈黙が妙に気持ち悪かった。初対面の人間と話す緊張感と、そしてやはり転校生の不気味な仮面がその原因を作っていたのだと思う。
わたしが名乗ると同時、記憶に新しいあの明るい声が再び教室の中に響き渡る。


「み、つ、け、たー!!」
「うぇ!?」


急に大きな声を出されて、思わずおかしな声が漏れてしまう。転校生の声で振り返ったデイダラは「うるせェ!てめートビコラァ!!」やはりご機嫌斜めなのか、今日は一段と堪忍袋の緒が短い。


「やだなぁデイダラさん、ちょっとびっくりしちゃっただけじゃないですか。相変わらず気が短いんだから・・・アハハ」
「何がデイダラさんだ!センパイって言えっつってんだろ!うん!?」
「本当デイダラさんってそういう細かいトコ気にしますよね・・・あ!知ってます?細かい男は女の子にモテないって・・・アハハ、どうします?デイダラさん・・・じゃなかった、デイダラセンパイですね、スイマセーン」


ずいぶんと滑らかに口を動かす・・・様子は見られなかったけれど、嬉々とした声が次々と飛び出してくる転校生の口元を呆気に取られたように眺めていると、その声とはまるっきり正反対にどす黒く曇ったような重い空気を感じて、わたしは思わず戦慄してしまう。


「・・・てめェトビ今日という今日は」


もやもやと黒いもやがその後ろに見えるような声がデイダラの口からボタボタと落ちるように聞こえて、ごくり、思わず喉を鳴らしてしまう。けれどデイダラの堪忍袋が爆発する寸でのところでゼツくんがそれを遮った。


「ソンナヤツハホットイテサッサト職員室二行クゾデイダラ・・・」
「うん!?元はと言えばてめーがトビなんか連れてくるからこんなことに」
「怒ラレルト面倒ダ」
「そうだね、うちの担任は結構厄介だよね。早く日直日誌を提出して帰ろうよ・・・」


もう一人のゼツくんも今度はゼツくんの味方だ。


「・・・まぁ、それもそうだな・・・うん」


あんなに怒っていたくせにこうもあっさりデイダラが引くのにはわけがあった。
前に聞いたことがある、デイダラはうちのクラスの担任の先生がどうも気に入らないらしい。
よく寝坊してくるし、ぱっと見冴えない顔をしているし、サスペンダーがおしゃれだけれど花粉症なのか年中マスクをしていてどんな顔をしているのかよくわからないし、頼りないイメージは確かにある。現にそのせいでペインがいろいろと苦労をしているらしいということを小南からよく聞いていた。
でもその見た目とは反対に担当教科の社会科だけでなく数学や英語、化学でさえもそれなりに分かりやすく教えてくれる先生がわたしは嫌いじゃなかったし、他の生徒からも好かれている方ではあると思う。けれどどうやらデイダラはそこが気に入らないようだ。
たぶん、だけれど、デイダラはエリートと呼ばれる人が好きではないのだと思う。才能、ってやつだろうか。努力よりもそれが勝っているような人に対して良い印象を持つイメージがデイダラにはなかった。たったひとり、サソリくんを除いて。


「行クゾ」


いそいそと教室を後にするゼツくんの後ろを、不貞腐れた顔のデイダラが付いていく。教室を出る直前にデイダラはくるりと振り返り、言った。


「・・・余計なこと言ったらぶん殴るからなトビ」


その言葉を最後に、教室の中は水を打ったように静まり返る。やはり数秒、わたしと転校生の間には沈黙が流れてしまう。そしてやはりその沈黙を突き破るのはわたしではなく転校生の方なのだ。


「・・・聞きました?ぶん殴るですって・・・物騒だなぁ、アハハ」
「・・・う、うん・・・」


なんて答えたら良いのかわからず途惑ってしまうわたしなど気にする様子もなく転校生は続ける。


「ところでセンパイってー」
「な、なに?」
「あ!・・・やっぱコレまずいかなぁ・・・どうしよっかな、うーん・・・」
「・・・え?」
「でもデイダラさん本人が言ってたし・・・」
「・・・あの・・・トビ、くん?」
「いやぁ、すいません、でもやっぱ信じられないからなー・・・」


言葉の裏に隠された真実を知るためにはどうしたら良いのだろう。
わたしたち人間は思考能力というものを持ってしまったばかりに、単純なことさえも複雑に考えようとしてしまう。たとえば言葉の裏に隠された真実などというものがあっても無くても、あると信じそれを探そうとしてしまう。それはまるで宝の無い宝探しでもしているようだ。
そこにあるものを見つけるよりも、そこにないことを証明するほうがずっと難しい。純粋な言葉ほどどこかしらに疑念を抱いてしまうのは人間の悪い癖だ。けれどこの子は、そんな感情など一切持ち合わせていないように言葉を口にする。
彼にとって、言葉とは言葉そのもので、おそらくその裏を覗き込もうとすらしないのだろう。


「デイダラさんと付き合ってるってホントですか?」


時に純粋さはとんでもない誤解を生む。このときわたしは初めてそう実感した。
















#13 感情成長期



デイダラがどんな冗談でこの子を騙そうとしたのかはわからないけれど、それ以上に気になったのはなぜデイダラがそんなことをする必要があったのか、ということだ。