「はーい静かに」


独特の抑揚ある声が教室に響くと、それまでがやがやと騒がしかったクラスの話し声がぴたりと止む。
カカシ先生は本当に先生としての威厳がないというか、やる気が足りないというか、覇気がないというか、理由はともあれカカシ先生という仮にも"先生"が教室に入って教壇の上に立っても誰一人雑談を止める気配がなかったのはある意味すごいことかも知れなかった。それともカカシ先生の存在に気付かなかったせいなのか、他のみんなはともかくとしてわたしはカカシ先生と一緒に教室に入ってきたにも関わらず、席に腰掛けるが早いかサソリくんと日直の話に花を咲かせてしまっていた。だからやはりカカシ先生の存在に気づく気付かないの問題ではないのかもしれない。その後でカカシ先生と視線がぶつかって苦笑いを返されたときは一体何のことやら、愛想笑いを返していたわたしだけれど、そうか、一時間目は、カカシ先生の授業だ。


「授業、始めるよ」


・・・もう始業15分も過ぎてるけど。
カカシ先生が独り言のように呟いて、教科書をパラパラとめくり始める。左手に社会科の教科書、右手には白いチョークを持ったカカシ先生を見るとやはり"先生"なんだな、と思う。カツン、カツン、乾いた音を響かせながら白いチョークが黒板の上に文字を作る。わたしはこの音が好きだった。


「・・・はい、じゃ今日は31ページの5行目からね。・・・誰に読んでもらおうかな」


突然始まった授業と心地よいチョークの音にぼうっとしていたらしく、背中を向けていたカカシ先生がクルリと振り向いてクラスを視線で一周したとき初めてわたしは机の中に手を入れる。そしてカカシ先生が手にしているのと同じ倫理の教科書を見つけると急いで31ページを探した。こういうとき、不穏な動きをしているとうっかり当てられてしまうことをわたしも、誰でも、わかっていた。
ぺらりと教科書をめくる音だけが聞こえた後で水を打ったように静まり返った教室は妙な緊張感に包まれていた。なるべく平然と、自然に、と意識していたのに、ようやく31ページを探し当ててほっと一息つくと同時にカカシ先生の細くなった右目に見下ろされていることに気がついたときには思わずたじろいでしまった。こういうときに必ずと言っていいほど先生に見つかってしまうのはやはり、特等席の欠点だとわたしは思う。数学の時間に前に出て黒板で問題を解かされるのは勿論好きじゃないけれど、こんな風に静まり返った教室で一人、みんなの前で教科書を読み上げるのはもっと苦手だ。
悪あがきのつもりで、31ページで開いた倫理の教科書を盾に頭を隠すと、


「・・・じゃ、日直の」


やっぱり、と思ってゆっくり顔を上げると、先生の視線はわたしでも、もう一人の日直であるサソリくんでもなく、もっと教室の後ろの方、「デイダラ、読んでちょうだい」廊下側の一番後ろの席に向かってそう言った。その証拠にサソリくんの頭は少し斜め後ろを向いている。


「な・・・オイラ日直じゃねーぞ!」
「・・・あれ、そう?」
「オイラは昨日だっつーの。わざわざ日誌持ってったってのに忘れたのかよ・・・うん」
「あぁ、そうだっけ。でもま、当てちゃったから」
「はぁ!?」
「・・・次の段落までね、よろしく」
「・・・・・・・・・チィ」


ズズズズ、と床の上を椅子の脚が引きずられる音が聞こえた後で、聞くからに不機嫌そうなデイダラの声で教科書の文字が読み上げられていく。
ついさっきわたしに「日直でしょうが」と言って日誌を手渡して、その上日直日誌は今もわたしの机の上にあるというのに、もしかして今朝の仕返しなのだろうか。そうだとすれば、それってすごく、・・・先生に対してこんなことを思ってしまうのもおかしいけれど、かわいい。
苦笑いの裏でこっそり仕返しを考えていたカカシ先生を想像して、倫理の教科書に隠れてこそこそと笑っていると右側から何やら視線を感じた。まさかと思いチラリと右側を覗いてみるとサソリくんが少し怪訝な表情を浮かべわたしに顔を向けていた。


「・・・え、あの、これは別にデイダラのことで笑ってるんじゃなくて、」


訊かれてもいない質問に対して弁解でもするような言葉が飛び出して余計に焦ってしまう。サソリくんにだけ聞こえるようにと声のトーンをひどく落としたせいか、当のサソリくんにさえ聞こえないような小さな声になっていたらしくサソリくんは眉間に皺をよせてわたしの言葉が聞こえなかったと訴えるような表情をしていた。


「あ、なんでもなくて・・・」


不機嫌なのか、そうでなくてもこうなのか、どちらであるかは置いておくにしてもまさに棒読みであるデイダラのその声が後ろから聞こえる。
言わなくても良いことを口走って、しかもそれがサソリくんに聞こえていなくて、言い直すほどのことでもないのでサソリくんにどう謝ったらいいのかと考えながら口を噤むとサソリくんが少しだけ身を乗り出して「・・・悪ぃ、聞こえなかった。なんつった?」いつもの無表情に戻って小声でそう言ったのがわかった。


「・・・はいありがとね。じゃ続き・・・」


ガタンと少し大きな音がして、デイダラが勢いよく椅子に腰かけた様子が頭の中で容易に想像できた。サソリくんはといえば、そんなことなど気にする素振りも見せずじぃっとわたしの返事を待っているから余計に気まずくなってしまう。「えっと、」さっきよりもほんの少し声のボリュームを上げて言い掛けた瞬間、


「コラ、ちゃんと教科書見てなきゃダメでしょ・・・サソリ」


その声に反応して、わたしは勢いよく顔を上げて瞬間カカシ先生と視線がぶつかる。ほぼ時を同じくしてサソリくんもその視線をカカシ先生へと移したのがわかった。至近距離でわたしとサソリくんとを見下ろすカカシ先生をほんの少し睨んでいるように感じた。
そんなことはまるでお構いなしとでも言うようにカカシ先生の右目がにっこりと綺麗な弧を描く。


とおしゃべりするのもいいけど、それは休み時間にしてちょうだいね」


どうしてだろう、何故か注意されたのはサソリくんの方、というよりもサソリくんだけだった上にこんな形でわたしの名前が出てくるなんて。
こうなる発端は紛れもなくわたしにあるというのに、それでもわたしはそのことについてサソリくんに申し訳ないと思うよりも、カカシ先生の言葉にわたしの名前が出てきてしまったことがとても、これ以上にないくらいに恥ずかしくて仕方がなかった。一気に顔が熱くなるのがわかって、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。
ちらり、視線だけをゆっくりと動かしてもう一度サソリくんの横顔を覗いてみる。サソリくんはやはりカカシ先生を睨むように見上げているだけで、そしてカカシ先生もにこにこと穏やかな表情を浮かべたままサソリくんのことを見下ろしていた。こうして見るとサソリくんがとても怖い人のように思えて、わたしならその鋭い目つきに中てられたら身震いしてしまうような気がする。サソリくんは本当はすごく優しいひとだということをわたしは知っているのに、そんな風に感じてしまった。


時間にしてどれくらいだっただろうか、僅か2,3秒のことだったかもしれない。サソリくんは無言のままゆっくりと立ち上がると胸の前で開いた倫理の教科書を読み始める。何事もなかったかのように淡々と唇を動かすサソリくんの表情は、長い睫毛の影が落ちてなんだか妙に色っぽく感じてしまう。
何もわたしがクラスのみんなの前で教科書を読み上げているわけではないのに、何故か心臓がおかしなくらいに大きな音で鳴っているのはもちろん、ついさっきカカシ先生がサソリくんに言った言葉とその表情のせいだった。だけどきっとそれだけじゃなくて、そんなサソリくんがわたしのすぐ隣にその影と声を落としているから、というのも理由の多くを占めているような気もする。


「・・・ゆえにソクラテスはもっとも知恵のある者と言われて・・・・・・・・・・」


わたしのすぐ右側から生まれるサソリくんの声は一瞬にして教室中の空気に振動を与え、みんなの耳へ音を伝える。妙な感覚だ、わたしも、カカシ先生も、クラス中のみんなも一緒になってただただサソリくんの声を聞いている。
サソリくんはただ淡々と、教科書に書かれた文字を追ってはそれを音に変えているだけなのに、サソリくんのその声を聞いていると何の面白味もないはずの文面がまるでおとぎ話でも描かれているように思えてくるのだ。


「、・・・近代でも多くの人々に影響を与えました」
「はい、ありがとね」


ガタン、静かに音を立ててサソリくんが椅子に腰掛ける。おとぎ話はあっという間にエピローグまでも終えてしまったみたいだ。「サソリく・・・」さっきのことについて謝ろうとサソリくんに声を掛けたとき、カカシ先生は何か思い出したようにいつもより少し大きな声で「あ、そうだ」言った。


「さっき言うの忘れてたけど・・・来週のホームルームで学園祭についていろいろ決めなきゃなんないからみんな、何か考えておいてね。・・・ペイン、よろしく」


言うだけ言って、「・・・じゃデイダラとサソリが読んでくれたところ、説明するからみんなノートとってね」カカシ先生はそそくさと授業を再開した。
学園祭。そうだ、もうそんな季節だ。すっかり忘れてしまっていたくせに、こうしてその一大イベントの話が出てきた途端にたまらなく幸せな気持ちでいっぱいになるわたしはやっぱり現金だ。


チョークが黒板を弾く乾いた音と、カカシ先生の話す声が聞こえる。隣のサソリくんが黒板の文字をノートに写しているのを見て、わたしもノートを取らなければと慌てて机の上にノートを開く。ふでばこからシャープペンシルを取り出したときふと、日直日誌の表紙が目に入った。
わたしと、サソリくんが日直。『日直だろ』と言ったときのサソリくんの表情を思い出してへらり、思わずにやけてしまう。休み時間に黒板をきれいにするのも、一時限ごとに授業の内容や所見を書くのも、今日はわたしとサソリくんが係なのだ。
ただひとつ心配なのは、カカシ先生の身長がゼツくんよりも高いことだ。黒板の一番上に書かれたチョークの文字は、わたしはもちろんサソリくんでも届きそうにない・・・気がする。
















#15 おどるひとがた



授業の開始が遅かったからだろうか、あっという間に一時間目の終りを告げるチャイムが鳴る。


「じゃ、続きはまた今度。日直は黒板消しておいてね。日直は・・・」


そう言ってカカシ先生はクルリと黒板を向いたかと思えばすぐに振り返って続けた。


「サソリと、ね。よろしく」


そう言われて、カカシ先生は黒板の一番右端、サソリ、と縦に並んで書かれていた文字を確認したのだとわかった。
けれどそのときよろしくと言ったカカシ先生の表情がひどく穏やかな笑みを浮かべていた理由は、よくわからなかった。


「・・・黒板、消すか」


カカシ先生の姿が見えなくなった途端、サソリくんは呟くようにそう言った。「・・・うん!消そう!」嬉々として返事をしたことが意外だったのか、サソリくんは一瞬目を丸くした後でふわり、小さく微笑むとすっと立ち上がり教壇の上に立つ。一瞬、その足取りが軽く見えたのはたぶん・・・わたしの勘違いだ。