低い声に名前を呼ばれて顔を上げると、二つの黒い眼がじっとわたしを見下ろしていた。
ごそごそと机の中を漁る手を止め、「イタチくん」その視線に答えるといつものポーカーフェイスのままでイタチくんは静かに続ける。


「日誌なら昨日オレが提出しておいたが」
「あっ・・・え?」
「それを探していたんじゃないのか」


イタチくんの瞳は、今にも吸い込まれてしまいそうなほどに深い深い色をしている。その中に映し出されたわたしの姿はこの実体ごと丸呑みにされてしまうんじゃないかって、妙な想像を働かせてしまうくらいに不思議な力を持っているような気がする。なんていうか―――そう、トビくんと、似ているのかもしれない。見た目も性格も、どこを取っても二人の共通点なんてすぐには見つけられないのに、なぜだかそう思ってしまった。イタチくんが見事にわたしの探し物が何か言い当てたからだろうか。どうしてわかったのだろう。


普段あまり使うことのない国語の便覧や今日の授業には必要のない英語の教科書やワークまでもが押し込められた机の中を朝から掻き回していたのは今イタチくんが言ったとおり、日直日誌を探していたからだった。テスト・・・というよりも、テストに向けてサソリくんと勉強をすること(もっと正確に言えばサソリくんに勉強を教えてもらうこと、なのだけれど)で頭がいっぱいになっていたのだと思う。日誌を提出しないままわたしは下校してしまった、ということに気が付いたのはついさっきのことだ。教室の一番後ろの席、そこにデイダラとトビくんの姿はない。購買部にでも行ったのだろうか。


「そう・・・なんだけど」


どうしてそれがわかったの?と、わたしが続けるよりも先に「それだけだ」言い残してイタチくんはくるりと踵を返して颯爽と自分の席へと戻っていく。さすがは学年トップと言ったところか。イタチくんのその肩書きは言葉の通り、背中から滲み出ているように思う。それを改めて理解したところで、日誌を提出してもらったお礼を言っていないことに気が付く。どうしてわたしはいつもいつも大事なことを忘れてしまうのだろう。
















「イタチくん」


丁度イタチくんが椅子を引きかけたところだった。
わたしの呼ぶ声に気が付いたイタチくんは律儀にぴたりとその動作を止めてわたしを見つめ返す。


「何の用だ」
「あ・・・その、日誌、提出しておいてくれてありがとう」


睨まれているわけでもなければ不機嫌の色が滲んでいるわけでもない。それなのにイタチくんのその眼に見つめられるとなぜか不穏な気持ちになってしまうのはどうしてだろう。気まずいというか居たたまれないというか、―――こんな風に感じてしまうわたしはなんて失礼な人間だろうと自分でも思う―――意味もなく緊張してしまう。サソリくんに見つめられているときとは全然違う緊張感だ。


「わざわざそれを言いに来たのか」


少しの沈黙が流れた後でイタチくんがそう言うから、「ううん、あの、それだけじゃなくて・・・」何もがっかりなんてされていないのに思わずそう答えてしまった自分自身が悔やまれる。


「まだ何かあるのか」
「えっと・・・それは・・・」


こんな風にイタチくんを引き留めてしまったのにはもしかしたらわたしが無意識のうちにそういう働きかけをしようと考えていたせいなのかもしれない。
デイダラの目の下が暗くなっていたのを見てしまったからだろうか。イタチくんのことだ、素直に頼めばきっと優しく丁寧に教えてくれるに決まっている。だからと言ってデイダラに勉強を教えてあげて、なんてことをイタチくんに頼める立場に、当然だけれどわたしはいない。もっとも、そんなことをしてもデイダラにとっては大きなお世話でしかないだろうし、わたしにとってはただの自己満足に過ぎないということもわかっている。
けれど言い掛けたことを今更何でもないと訂正するわけにもいかない。それこそ何か含みがあるように思えてなんだかおかしな気がするのだ。





どうしよう、と考えあぐねているときだった。
やはり飲み物を買いに行っていたのか、オレンジジュースの紙パックを片手にデイダラが一人、こちらに近づいてくる。疲弊したような空気を纏ったままではあったけれど、その表情は幾分か穏やかなものに変わったように見える。トビくんは自分のクラスに戻ったのだろう。


「デイダラ」
「・・・何話してんだ?・・・うん?」


大きな青い眼がイタチくんの姿を捉えるなりその表情はあからさまに不機嫌なものに変わるから、わたしの方が焦ってしまう。どうしてこうデイダラは感情の起伏が激しいのだろう。言ってみれば”感情豊か”なのだけれど、一概にそうとは言い切れないのはもちろん、イタチくんに対するこの態度のせいだ。横目で鋭く睨んだ後で吐き捨てるように鼻で笑うとわざとらしくイタチくんから目を逸らす。ああ、もう。デイダラとイタチくんとの間に何があったかは知るはずもないけれど、それにしてもデイダラの不躾な態度にはこっちがハラハラしてしまう。


「あ、あのね!イタチくん」
「何だ」
「すごく夜遅くまで勉強してるのに、次の日になると勉強した内容とか覚えた公式とかあんまり覚えてなくて・・・これって勉強の仕方が悪いのかな?」


妙な雰囲気の中で板挟みになるわたしの口から出てきた言葉は、おそらく十中八九の人間がその答などはわかりきったような陳腐な質問だった。にも関わらずイタチくんは鼻で笑うこともせず真剣なまなざしでじっとわたしを見つめ返す。


「そんなに遅くまで起きているのか」
「うん・・・と、2時とか、3時とか・・・徹夜とか」


チラ、とデイダラを横目に見たけれど、いかにも不機嫌そうな、ぶすっとした表情はさっきと全く変わっていない。一体何がそこまで嫌悪感を抱かせるのだろう。イタチくんが誰かに嫌われているという話は(デイダラを除いては)聞いたことがないし、わたし自身もイタチくんに対して嫌悪すべき点なんて見つけたことは一度もない。


「何故覚えられないか・・・」


わたしの質問を反芻するように繰り返し口にした直後、


「足りないからだ」


イタチくんの視線がわたしとデイダラとの間をゆっくりと行き来し、きっぱりとイタチくんは言った。そのイタチくんの言葉に、いつのまにかわたしもデイダラも釘付けにされてしまっていたらしい。ごくん、と喉を鳴らす音が隣から聞こえて、それがデイダラの唾を飲み込む音だということがわかると妙な緊張感が容赦なくわたしと、そしてデイダラとを包んでいくような気がしてひどく不安な気持ちになる。
―――何が、足りないのだろう。


「睡眠が」
「・・・え?」
「睡眠時間が足りないから覚えたことも忘れてしまう」
「あ・・・はぁ、睡眠・・・」


間抜けな声を零してしまった後、至極当然とも言えるイタチくんの発言にどこか拍子抜けしてしまっている自分がいた。わかりきっていた答だったからだろうか。ううん、おそらくそれとは違う気がする。一体全体、わたしは何を期待していたというのだろう。思いながらもう一度デイダラの横顔を盗み見ると、彼もまたわたしと同じく、どこか張り合い抜けしてしまった様子だった。


「そ、そうだよね!ほら、デイダラ、だからちゃんと寝なきゃだめだよ!ね?」
「・・・まぁ、にはさっきの借りがあるからそんくらいは聞いてやるよ・・・うん」


”借り”というのはもしかして今朝公式を教えてあげたことを言っているのだろうか。だとすればそれはわたしではなくサソリくんのお陰だということになる。やっぱりサソリくんはすごい。こんな風に感じてしまうのはきっとおこがましいことなのだけれど、それでも、まるで自分のことのように、きっとそれ以上に嬉しくなってしまうのだ。
















「サソリくん、おはよう」
「あぁ」

始業のチャイムが鳴る5分前、特等席にサソリくんの後姿を見つけて声を掛ける。朝だからだろうか、不機嫌とも感じられなくはないサソリくんの返事にもわたしは動じなくなった。


「・・・何してんだ、デイダラのやつ」


なおもイタチくんのアドバイスを受け続けているデイダラに気が付いたのか、わたしが隣に腰掛けると不意にサソリくんが独り言をつぶやくようにそう零すから、頼まれもしないのにわたしは今朝からさっきまでの出来事を出来る限り正確に説明してみせた。相槌を打つことはおろか、頷きもせずにサソリくんはただじっと静止したままで、おそらくはわたしの話に耳を傾けていた。


「―――というわけで、今もきっとイタチくんにアドバイスしてもらってる・・・と思う」


”と思う”、と言ってしまったのは後ろの席から聞こえてくるデイダラの声がいささか乱暴に聞こえたからだ。それでもイタチくんとの会話を続けているところを見るとおそらく、デイダラもイタチくんのことを心から嫌っているわけでもないのだろう。あくまで、わたしの主観的な考えなのだけれど。


「フン・・・御苦労なこった」
「うん、そうだよね。デイダラがあんな態度なのにイタチくんは」
「違ぇよ・・・イタチのことじゃねぇ」


「え?」短く尋ねると、


「オレだったらデイダラなんかのためにそんなめんどくせぇことはしないぜ。わざわざイタチとの仲を取り持ってやるなんてことは」


ひどくぶっきらぼうに聞こえたサソリくんの返事から”御苦労”という言葉はイタチくんではなくてわたしに向けられたものなのだということに気が付いた。
褒められているというよりも呆れられていると言った方がきっと正しい。二人の中を取り持ったつもりはないのだけれど、なんて返事をしたらいいのかわからなくて、身を竦めたままサソリくんを見つめた。その赤銅色には小さくなったわたしが映っている。


「オレだったら・・・どうでもいいと思ってるやつのために何かしようなんて思わねぇ」


直後、赤銅色からはわたしの姿が消えてしまった。


サソリくんは普段からあまり口数が多い方とは言えない。デイダラと比べてもそれは一目瞭然だ。そしてサソリくんの言葉はいつも遠回しだから、その意味するところをわたしがすぐに汲み取れないということが往々にしてある。
思うのだ。
もしもサソリくんの言う”どうでもいいと思ってるやつ”がデイダラであるとすれば、わたしはサソリくんにとんでもない勘違いをされてしまったことになる。
サソリくんはどういうつもりでこんな風に言ったのだろう。聞けば、答えてくれるだろうか。


「あの、サソリくん、どうでもいいと思ってるやつ、って・・・」


ギリリ、ギリリ。得体の知れない何かに心臓が軋みを上げている。


「さぁな」
















#19 青いプリズム



「・・・行かねーのか?」
「え?」


いつのまにか落ち込んでしまっていたらしい首を持ち上げると、”化学T”と書かれた教科書とノート、それにA4サイズの資料集を小脇に抱えたサソリくんがわたしを見下ろしていた。


「今日は実験の日だろ」


言われて初めて思い出す。そういえばそろそろ授業も始まるというのに教室の中は人がまばらだ。みんな既に化学室へと移動してしまったらしい。教室に残っているのはわたしとサソリくんと、そしてデイダラとイタチくんと干柿くんのほか数名だけだった。


「あ、待って、サソリくん、わたしもすぐに」


慌てて机の中に両手を突っ込み、ガサゴソと化学の教科書を探していると小さくサソリくんが笑う声が聞こえて不意に頭を上げる。


「バーカ」


ドキリ、ドキリ。柔らかく目を細めて笑うサソリくんに心臓が喜びの悲鳴を上げている。


「待たないなんて言ってねぇだろ」